
日本赤軍事件や、あさま山荘事件に大きく関与した日本赤軍と連合赤軍の違いを事実を元にシェアしていく。
この2つの軍派、つまり日本赤軍と連合赤軍との違いは1970年代、日本の社会を震撼させた過激な思想と暴力的手段で当時一世を風靡した。
一見、2つの軍の違いは社会の変革を目指しているように見えたが、その実態はどれほど残虐で冷徹だったのか?日本赤軍と連合赤軍、それぞれの活動には大きな違いがあるものの、共通して「サイコパス的」な冷酷さが浮かび上がる!
暴力と恐怖で社会を揺るがし、無実の人々を犠牲にした彼らの真の顔を、今回は深掘りしてみる。
【結論】連合赤軍と日本赤軍の違いとは?

連合赤軍と日本赤軍。どちらも70年代を象徴する過激派組織で、日本国内外でその名をわかせた存在だ。
出典https://www.youtube.com/
だが、この2つの組織は同じ革命思想を掲げていたにもかかわらず、目的や活動の内容において大きな違いを持っていた。
連合赤軍は主に国内での暴力活動に重きを置いたのに対し、日本赤軍は国際的なテロ活動を展開し、その影響力を世界規模に広げた。

連合赤軍と日本赤軍の違い
連合赤軍は、日本国内での共産主義革命の実現を目標とし、都市ゲリラ戦や山岳拠点での武装訓練を進めた。
一方で、日本赤軍は、国際的な革命運動の一翼を担うことを目的にし、海外でのテロ活動に注力した。
この違いが、両組織の行動パターンに大きな影響を与え、連合赤軍は国内での組織内抗争により崩壊し、日本赤軍は国際的なテロ組織として長年活動を続けた。
このように、両者の違いは活動範囲と戦略にあるわけだ。

連合赤軍と日本赤軍の違いについて
連合赤軍は国内革命を目指し、日本赤軍は国際テロの実行部隊として動いた。この違いが、それぞれの組織の最期にも大きく影響しているのだ。
両者の組織構造と目的の違いをわかりやすく説明
連合赤軍と日本赤軍の組織構造は大きく異なっていた。

連合赤軍と日本赤軍
連合赤軍は、日本共産主義青年同盟や赤軍派、革命左派など複数の左翼組織が統合されて生まれた。
日本共産主義青年同盟は、共産主義の理念を掲げる青年組織であり、学生運動を主軸に社会変革を目指していた。
一方、赤軍派はより急進的な革命を志向し、武力闘争を推進していたグループである。
そして、革命左派は、労働運動を通じた革命を目指しながらも、最終的には武装闘争へと傾倒していった。
これらの組織が合流した連合赤軍は、当初は統一的な指導体制を持たなかったが、森恒夫と永田洋子が指導権を握ることで、独裁的な構造が生まれた。
内部では階級闘争を徹底し、組織の純粋性を維持するために「総括」と称した自己批判制度が導入された。
これが後に山岳ベース事件へとつながる!

連合赤軍と日本赤軍の違いについて
一方、日本赤軍は、重信房子を中心に結成され、国際的な革命運動に参画することを目的とした。
パレスチナ解放人民戦線との連携を重視し、中東を拠点に活動を展開した。
パレスチナ解放人民戦線は、1967年に結成されたパレスチナの武装組織であり、パレスチナ解放機構の一派として、イスラエルに対する武装闘争を展開していた。
社会主義と反帝国主義を掲げ、国際的な革命勢力とも連携を深めており、日本赤軍との協力関係もその一環だった。
組織は連携先との協力関係を重視し、比較的柔軟なネットワークの運営が採用された。
このように、連合赤軍は独裁的かつ内向きの組織であり、日本赤軍は外部組織と連携しながら国際的に展開する組織だった。
サイコパスな両者に共通するモノとは?

連合赤軍と日本赤軍には、多くの違いがあるが、共通する要素も多い。
その中でも際立つのが、メンバーたちが持っていた極端な革命思想と、手段を選ばない過激な行動である!

連合赤軍と日本赤軍
両組織とも、革命の成功のために暴力を正当化していた。
連合赤軍では「総括」という名目での内部粛清が行われ、12名ものメンバーが命を落としたわけだ。。
一方、日本赤軍は外部に対してテロ行為を行い、世界各地で無差別に暴力を振るった。
また、両者に共通するのが、「絶対的なリーダーへの忠誠」だろう!
連合赤軍では森恒夫と永田洋子、日本赤軍では重信房子がカリスマ的な指導者として君臨し、彼らの決定に反する者は容赦なく排除された。
このような独裁体制が、組織の暴走を招いた大きな要因である。
さらに、両者のメンバーは、自らの行動を正当化するために徹底した思想教育を受けた。「革命のためには犠牲が必要」という考えが組織全体に浸透し、暴力行為が当たり前になっていったのだわけだ。。
連合赤軍の暴力的活動とヤバいその実態・・

連合赤軍の暴力的な活動の中でも最も有名なのが「山岳ベース事件」だ!
これは、71年から72年にかけて群馬県の山岳地帯で発生した、組織内事件である。
森恒夫と永田洋子は、「革命への忠誠心が足りない」とされたメンバーを次々と拷問の末に12人が死亡した。

連合赤軍
また、連合赤軍は外部に対しても暴力を行使した。
その代表的な事件が72年に発生した浅間山荘事件である。
この事件では、連合赤軍のメンバー5人が長野県軽井沢町の浅間山荘に立てこもり、管理人の妻を人質に取った。
警察は長期にわたる包囲作戦を展開し、機動隊やヘリコプターを動員した。連合赤軍は散弾銃や鉄パイプ爆弾を用いて応戦し、事件は銃撃戦へと発展した。
警察側も徹底的な鎮圧作戦を実行し、10日間にわたる攻防の末、クレーン車による建物の破壊を伴う突入作戦が決行された。
最終的に、連合赤軍のメンバーは全員逮捕されたが、この事件では警察官2名と民間人1名が死亡し、27名の警察官が負傷した。

連合赤軍/あさま山荘事件
日本中が固唾をのんで見守る大事件となり、連合赤軍の暴力性が広く認識される決定的な出来事となった。これにより、彼らの革命思想は完全に否定され、社会からの支持も失われる結果となった。。
これらの暴力行為により、連合赤軍は国内での支持を完全に失い、組織は壊滅へと向かったのだ。。
彼らの掲げた革命という理想は、結果として仲間内での無差別な暴力を生み出し、日本社会に恐怖と混乱をもたらしただけだった。
多くの命が失われ、組織内外の人々を巻き込んだ彼らの行為は、もはや「革命」と呼べるものではなく、単なるテロリズムに過ぎなかったのだろうか。
連合赤軍の歴史は、極端な思想と盲目的な信念がいかに暴走し、社会に深刻な被害をもたらすかを示していた。
彼らの活動は、社会をより良くするどころか、かえって無意味な破壊と悲劇を生み出した。今後もこのような過激な思想が再び起こらないよう、彼らの失敗を検証し続けることが重要であると思う。
日本赤軍のヤバいテロ活動や国際的な実態・・

日本赤軍は、国内ではなく海外でのテロ活動を展開した。その中でも最も悪名高いのが、72年のテルアビブ空港乱射事件だ!
この事件では、日本赤軍のメンバー奥平剛士、岡本公三、安田安之の3人が、イスラエルのロッド空港に到着し、手荷物に隠していた短機関銃と手榴弾を取り出し、無差別に銃を乱射したヤバい事件だ!

日本赤軍
その結果、26人が死亡、80人以上が負傷するという大惨事を引き起こした。。
犠牲者にはイスラエル人だけでなく、プエルトリコからの巡礼者17人も含まれており、事件は国際的な衝撃を与えた。
犯行後、奥平剛士と安田安之は死亡し、唯一生存した岡本公三は現場で逮捕された。
岡本はその後、イスラエルで裁判にかけられ、終身刑を言い渡されたが、97年に囚人交換によって釈放され、レバノンに逃亡した。
この事件は、日本赤軍が国際的なテロリストとしての地位を確立するきっかけとなった。
彼らの目的は、パレスチナ解放人民戦線と連携し、イスラエルに対する攻撃を実行することだったが、その手段は無差別殺人という最も過激なものであり、多くの罪なき人々を巻き込むものだった。
この事件により、日本赤軍は世界各国から危険視されるようになり、日本政府も彼らの取り締まりを強化するきっかけとなった。
さらに、日本赤軍はハイジャック事件にも関与している。
77年9月28日、彼らは日本航空の旅客機「ダッカ事件」を引き起こした。
日本赤軍のメンバー5人が、バングラデシュのダッカ空港で日本航空472便をハイジャックし、人質を取って日本政府に身代金600万ドル(当時の約18億円)と、日本国内で拘束されていた仲間9人の釈放を要求した。
この事件では、日本政府が彼らの要求を受け入れ、人質解放と引き換えに指定されたメンバーの釈放を決定した。
この対応は「超法的措置」として当時の福田赳夫内閣が判断したものであり、国内外で大きな議論を巻き起こした。
結果として、釈放された日本赤軍のメンバーはリビアへと逃亡し、彼らの活動基盤はさらに広がることになってしまった。。
この事件は、日本政府がテロリストに屈した事例として批判を浴び、日本赤軍の影響力をより強化する結果となった。
彼らはこの成功を糧に、その後も国際的なテロ活動を続け、各国の警察や諜報機関から危険視されるようになる。こうした活動の結果、日本赤軍は国際社会での孤立を深め、多くのメンバーが逮捕・逃亡することとなった。
彼らが掲げた革命という理想は、実際には無差別殺傷や人質事件といった非道な行為に変貌し、正当性を完全に失った。
テロという手段を用いた彼らの活動は、多くの罪のない人々を犠牲にし、日本のみならず国際社会からも強く非難されることとなる。最終的に、2000年代に入ると、残されたメンバーは次々と逮捕され、組織は事実上の崩壊を迎えたわけだ。
彼らの掲げた革命は、社会の変革どころか、混乱と破壊を生んだにすぎなかったわけだ!

日本赤軍について
結果的に、日本赤軍の歴史は、テロと暴力が決して社会を良くするものではなく、むしろ社会的な混乱と悲劇を生むものであることを示す象徴的な事例となった。
その負の遺産は、現代社会においても過激思想の危険性を警鐘として伝え続けることになるだろう。
両者は共産主義思想を掲げたが結果は・・
連合赤軍と日本赤軍、どちらも共産主義革命を掲げたが、結果としてたどり着いたのはまったく異なる道だった。
連合赤軍は革命の名のもとに同志で集結を行い、結果的に組織の崩壊を招いて機能は完全に停止した。
内ゲバの暴走が自滅を招き、武装闘争の名のもとに何を成し遂げたのかすら分からないまま消滅していったわけだ。。
一方の日本赤軍は、国際的な武装闘争を掲げ、中東を拠点にテロ活動を展開。
数々の国際的なテロ活動を主導し、日本国内よりも海外での知名度が高いとされている!
彼らの目的は世界革命であり、資本主義体制の崩壊を目指していたが、結局のところ、彼らの活動が革命を成功に導くことはなかった。
80年代以降、各国の対テロ対策が進み、支援国の減少も相まって次第に活動は停滞。
2000年にリーダーの重信房子が逮捕されたことで、事実上のジ・エンドとなった。。

日本赤軍/重信房子
どちらの組織も共産主義革命という理想を掲げながら、現実には大きな混乱と犠牲を生んだだけだった。。
連合赤軍は内ゲバで自滅し、日本赤軍はテロリズムに走ったものの、革命の実現には至らなかった。
結局のところ、彼らの掲げた理念は現実の社会とは相容れず、暴力による変革は支持を得られなかったわけで、むしろ、彼らの行動が社会の恐怖を煽り、共産主義運動そのものの信用を失墜させる結果となった!
革命を期待したはずの組織が、結局は暴力に飲み込まれ、何ひとつ変革を成し遂げることなく歴史の闇に消えていった。
この結果を見れば、彼らの運動がいかに現実とかけ離れたものであったかがよく分かると思うな。。
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結局のところ何が彼らを「悪党」にしたのか・・

連合赤軍と日本赤軍が「悪党」と呼ばれる理由は、その理念や革命思想ではなく、手段の過激さと結果の悲惨さにある!
彼らが掲げたのは、日本社会の変革や世界革命という壮大な目標だったが、それを実現するために選んだ手段が、暴力、殺人、テロだったことが問題だった。

日本赤軍
まず、連合赤軍は内ゲバによって、仲間であるはずの同志を次々とリンチし、死に追いやった。
山岳ベース事件では、わずか数ヶ月の間に12人が凄惨な暴行の末に死亡した。理想を掲げたはずの彼らが、自らの仲間を「総括」と称して拷問し、殺害する姿はもはや革命とは無関係の狂気そのものだったはずだ!
一方、日本赤軍は国際的なテロリズムへと突き進んだ。
テルアビブ空港乱射事件では、無差別に銃を乱射し、子どもを含む26人を殺害した。
ハーグ事件やクアラルンプール事件でも、人質をとり、国家を脅迫する手法を用いた。
彼らの行動が世界に与えたのは、日本の革命勢力への理解ではなく、「日本人による凶悪テロ」という負のイメージだったわけだ!
本来、革命とは社会をより良くするための手段であるべきだが、彼らの行為は社会に恐怖をもたらし、無関係な人々の命を奪った。
目的の正当性を主張したところで、そこに至る手段があまりにも暴力的で非道であれば、それはもはや正義ではなく、単なる犯罪だ!
だからこそ、彼らは永遠に「悪党」として記憶されるのであるわけだな。。
この記事を書いた人

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大学では社会学を専攻し、特に犯罪心理学とジャーナリズムを重点的に学ぶ。在学中に起きた未解決事件に心を動かされ、卒業後は記者として事件報道を担当。その後、フリーランスのジャーナリストとなり、現在は未解決事件や特殊な事件に特化した当サイトを運営。
【得意分野】
●未解決事件の再検証
●犯罪心理分析の解説
●社会の中での事件の影響を掘り下げる記事執筆
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